福岡アジア美術館という機能の真価と魅力を垣間見た
交流プログラム
→トリエンナーレを媒介にして、アジア美術館の魅力であり、得意技であり、私が深く感銘したのは、入場料を払わない部分である、交流プログラムの部分であった。
私が実際に立ち会ったのは、Amanda
Heng (SG) の「もやしのひげを取りながら対話をするプロジェクト」とPoPo (MM) のパフォーマンス。
Amanda Hengのプロジェクトは、美術館内のパブリックスペースの一角で行われ、幾つかのお茶のみテーブルの上に、もやしが盛られ、まさに団地のコミュニティースペースを思わせる趣の中で参加者たちがもやしのひげを取りあっていた。
作家であるAmanda Hengの指示による所作には見受けられず、まるでもやしのひげを取りあうことで自然と卓を囲んだ人との間に接点らしきものをひげを取る者に思わせる所作は、Amanda
Hengが望んだ意図にまさにはまってゆくかのようであった。
このプロジェクトを活気付かせる存在として、ボランティアの面々がそれぞれと同じ世代に「寄って行きませんか」と率直に誘っていることがあったのではと思われる。
Amanda Hengが意図する、関係としての芸術表現をサポートするかのような、その自然な率直ぶりはプロジェクトをプロモートする上で、とてもよい効果をもたらしているように見えた。本当に、もやし取りの場が楽しそうなのですもの。作家が時々、相手にしてもらえない位に、自然な環境で。
内容そのものが素晴らしかったものの、複雑な気持ちを残したのが、PoPoによるパフォーマンスであった。喫茶ゾーンの横にあるオープンスペース的な所で行われたパフォーマンスは厳かであるとともに、ミャンマー(ビルマ)では禁断である「パフォーマンス」という行為を行うということもあり、鮮烈でかつ、行為そのものから沸きあがる何かを感じさせるものであった。
このような場を対峙することが出来ることそのものこそ、福岡アジア美術館の卓越性であったが、ミャンマー(ビルマ)の事について、関心をあまり持つことの無い多くの観衆やその背後にいるこの催事の情報に触れることの出来る人々に対して「湧きあがる何か」を個々が掴むことが出来る感受性のアンテナとなるべき工夫が成されなかったように見受けられた事が残念であった。
パフォーマンスの後、PoPoと参集者との対話の時間が持たれたが、PoPoそのものが多くを語らぬ人物であったため、論議が深まることもあまり無かった。
例えば「なぜパフォーマンスに赤を色として、そして、言葉として多用していたのか?」とのある参集者の問い掛けに対して、PoPoは「赤がミャンマーではデモンストレーションとして用いることを禁じられている色だから」とのみ語る中で、もし、ミャンマーが仏教至上のお国がらで、ビルマの仏教僧の袈裟の色が赤であって聖なるものであるとか、ミャンマー政府の社会統制が政治的な部分以外においても厳しいものであるということとかが、参集者の頭の中にあったら、パフォーマンスに対する個々の解釈が深みのあるものとなったり、PoPoの一言で多くの考えを持つことが出来ることであっただろう。
美術展であるから芸術の部分にのみ、光を当てればいいのではということもある。
しかし、個々の見る者や影響が及ぶ範囲の人々が、アジア美術に対する理解を深めるためにも、それぞれの芸術を取り巻く社会や文化の環境についての理解が促されるような仕掛けがあってもいいように感じられるのだ。
「美術館を超えた存在」を希求するならなおさら、ジャーナリストや社会科学・人文科学者など、社会や文化環境に対する理解を深めさせてくれる「翻訳者」とのコラボレーションが周辺にあってもいいように思われた。
アジア美術館にとってのドメインを確立し続けるためにも、芸術家の立場を尊重するためにも、ここの部分は内在するする必要は無いのであるが、トリエンナーレを巡る周囲に、トリエンナーレの取り組みと同じ真摯さで、ただの「国際交流」にとどまらないアジア理解の批評空間を盛り立てるとともに、参加者にとってのリファレンスとすることが出来ればと感じざるを得なかった。
福岡アジア美術館の開館準備時期と期を同じくして生まれた、海外における新領域開発型の芸術施設の多く
が、芸術空間であるだけでなく、社会科学・人文科学の批評空間であり、機械・電子工学における開発の現場であり、これらが相互に結びつくことで現在の人類が直面している諸相の解決を取り組む現場として機能し始めている。(その例へのリンク
壱 弐
参) これらの取り組みはまさに超美術館の発想であり、それは展示空間を超えた、コミュニティー、ときには人類にとっての表現空間として効果を生み出しつつある。
福岡アジア美術館に対しても、アジア美術という新領域に向けた先駆者であり、インキュベーターとして、機能し続ける上で、美術を通じて影響を及ぼしあう周縁の存在との間でも刺激しあえる回路が自由なかたちで生まれる、拡大再生産し続けることをつい期待してしまうのである。
「翻訳者」とのコラボレーションが周辺にあってもいいように
→余談ではあるが筆者が、1998年の開館準備期間に、朝日新聞120周年記念フォーラムのためのビデオジャーナリズムの手法を用いた基調映像(アジアプレス・ナショナル制作)のための取材協力依頼を、アジアと地域との接点のケースとして問い合わせたところ、取り合って頂けなかったことが印象としてある。
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