May 25, 2000
ブレインポート・アムステルダム
- cool states
- 10:40 AM
- Category: B: Cool States Communications |
- Category: グローバル
ソーシャルクリエイティブなメディア・カルチャーがアムステルダムでが生まれた訳
岡田 智博 (info@coolstates.com)
ハッカーがその国一のプロバイダをつくり、WIREDのアイディアが生まれ、デジタル都市を持つ街、アムステルダム。そこは世界の中のデジタル・ネットワーク・カルチャーのハブといってもいい都市である。そして、アメリカにも日本にも無いもう一つのデジタルを取り巻くスタイルを生み出し続けている。スタイルを生み出し続ける存在、それは企業によるマーケティングでもなければ、政府による政策でもない、では何が?それはこの街に住み、訪れる一人一人が自分の居場所を作っただけの話。そんなアムステルダムがなぜ出来たのかの話をしよう。
アムステルダム中央駅。東京駅が模したという赤煉瓦の瀟洒な駅舎の中を、様々な人種やいでたちの人々が慌しく通り過ぎて行く。人の流れにおされるように大通りと出ると、両替商、安ホテルの看板が溢れ、バックパッカーたちが看板の塊の方向へと吸い込まれて行く。大通りの傍らにある運河の橋を渡り、路地に入る。16世紀そのままの迷路のような路地に入り込むと、甘い据えた薫りが鼻につき、少し咽る。紅い灯りに彩られた等身大のガラス窓の中で佇む女性たち、「コーヒーショップ」の看板、なぜか多い中華料理店、ただ「シェルター」とだけ掲示している建物… 食欲、性欲、耽美欲、人間にあるありとあらゆる欲望を吸収するかのような迷路を歩き、何本かの運河を渡る。ふと、視界が広がる。広場だ。
ニューマーケットという、元のユダヤ商人たちの街区は、オランダを占領したナチスによって住人たちが追われた後、様々な人々が住みつき、風俗的にも、文化的にも、カオスを形成している。そこは、中華街でもあり、微量の所持が認められているマリファナを親しむためのコーヒーショップがひしめく場であり、紅灯街であり、そして、隣の街区にアムステルダム大学があることもあり、スクウオッテングに代表される対抗文化の拠点で在り続けている。
ニューマーケットという名前の通り、古は市が盛大に開かれていた広場に、そこが商都アムステルダムの中心であったことを物語る一つの建物が建っている。
De Waag とよばれるその建物は、15世紀からこの広場とアムステルダムを見守ってきた。その1階を陣取るカフェに入る。カフェの中心には、オランダ文化の象徴とも言うべき書見台がカフェということを誇示するかのように陣取っている。書見台とは、その台の棚に積まれている雑誌や新聞を読みながら、ノートを取り、コーヒーを親しむ、情報というものを重要視するとともにこよなく愛するオランダ人の気性をそのもの示すかのようなテーブル。しかし、ここの書見台には、衝立とすべき部分に液晶ディスプレーが埋めこまれ、キーボードとトラックボールが置かれている。隣の人を見ると、この場でWEBメールをチェックしていた。
“Hey, Mr.!” 後ろから掛け声がする。この建物の上を陣取る、新旧メディア研究所の設立メンバーの一人である、ヘアート・ロヴィンクだ。「気に入ったかね、この書見台」と私に促す。「この書見台は、アムステルダム的なパブリック・アクセスということで作ったのだよ、ここに来れば誰でも自由に無料でインターネットにアクセスできる、それもいつもの気分で、何たって書見台なのだから」と言葉を続ける。「じゃあ、上に行こう」ヘアートは、厨房を抜けて、まるで巻貝のような階段を案内し、それを上る。
「ようこそ、インスティテューションへ」へアートが扉を明けると、何十台ものPC端末でそれぞれのプロジェクトを手掛ける、人々の姿が目に入る。WEBページを作る者、プログラミングする者、CGを作る者、文章を編集する者、次から次へと紹介される。メディア・アーティスト、編集者、グラフィックデザイナー、プログラマー、映像作家、多種才々、異なる国籍や背景のタレントたちが、声を交わしながら、異なるプロジェクトをそれぞれ手掛けているのだ。
「隣見る?」と、ヘアートに案内されると、薄暗くも華麗な壁画に天井が彩られたホールに大きなディスプレーとインターフェイスが浮かんでいる。「レンブランドの解剖図で描かれた部屋だよ。ここは商人たちの集会場であり、公開解剖が行なわれた市民文化共有の場であり、今は、インスティテューションということさ」と語り掛ける。ディスプレー上には、現在展開されているインターネット・アートのプロジェクトが公開されていた。
作業室に戻る。ヘアートは端末に腰を下ろすと、テルネットにアクセスし、様々なテキストを手際良く、編集する。これが、ヘアートが手掛けているプロジェクト。ニューメディア上での文化の可能性を議論し、世界規模で情報交換をする、巨大メーリングリスト、ネットタイムの編集現場である。ヘアートは、手を休め、プリンターから一つのメモを取り出して、私に渡した。それは、その投稿の中からの署名ファイルの一部、一言、「ベオグラードに行ったら彼女を訪ねなさい」。そして、テルネット上のテキストに視点を変えた… 重厚な木製の窓の向こうには、もともと、アムステルダムの街に入るゲートとして作られた De Waag であることを誇示するかのように、一直線に伸びた運河と、もう、何百年も変わらぬかのような煉瓦の家並みが続いていた。
気付いてみたらここはブレインポート
この頃、オランダ政府はアムステルダムを紹介するときにブレインポートという呼び名を付け始めた。世界トップレベルの荷物流通量を誇る「シーポート」ロッテルダム、KLMでおなじみの「エアポート」スキポール、そしてアムステルダムが「ブレインポート」というのだ。実感が湧かないかもしれないが、今、アムステルダムはヨーロッパのICT(ITとは言わないのだ “Information and Communication Technology”) ビジネスのハブの一つであり、人口たった70万人の街にあってここ数年で1300以上ものICT関係の企業が起業し、1万人以上の雇用を創出、そして世界第5位のインターネット網接続がある街なのである。レンガ造りの古い街並みの中にそんなにすごいネットワークがビルドインされているのだ。そりゃ、街並み景色を見ればそんな実感が起きないのもまた当たり前だが、ヨーロッパでいうならフィンランドのノキア、クールなイメージでいうならニューヨーク・シリコンアレーのレザフィッシュ、渋谷でならCCCとか(光通信とか)、ストックマーケットで見ても、ブランドで見ても、アムステルダムでイメージできるビッグ・ビジネスが無いからまたその実感が無いだろう。しかし、そこのカフェでまだ午後3時なのにビール飲んでいる兄ちゃんや市役所前のフリマで古着を見定めているおばちゃんがプレーヤーであったりする、誰もがICTの世界で何かをやらかすかもしれない街なのである。
この街ではメディアをどうビジネスにするかとか、メディアのどのコンテンツを楽しむのかという話よりも、メディアをどう自分のものに使いこなすのかということがメディアにとって一番重要なものとなっており、その気さえあれば、インターネットだけで無く、マガジンやテレビといったマスメディアさえも誰もがツールとして使いこなせるようになっている。その、メディアを使うことの当たり前さが、普通の仕事の一つとして、趣味として、社会運動の一つの道具としてデジタルメディアを使いこなし、世界規模での影響力を与える個人たちの集合体としてのアムステルダムの「ブレインポート」さを自然と作り始めてしまったのである。誰かに言われた訳でもなくて・・・
ハイブリッドNPO:スティクティング
アムステルダム(というかオランダ)には3種類の企業のかたちがある。一つは株式会社、もう一つは有限会社、そしてもう一種類として「スティクティング」という企業が存在する。8割近くの人間が英語を話せるというオランダ人(なので英語を勉強することで使いこなせるようになるのだから、世界で一番英語が出来る民族だと言い張る人もいる)。会話でNPOという言葉を使うと、首をかしげる人が多い。なぜなら、スティクティングがNPOの存在だからである。日本人が一般的に考えるNPOとスティクティングは大きく異なるものである。なぜなら、スティクティングは営利事業もビジネスも奨励されているからである。ではなぜ、他の企業と違って優遇されるのかといえば、その事業が社会貢献につながり、かつ、従業員の給料や役員報酬なども含まれるコストを抜いた利益を再度、その活動の資金に投入し、貢献活動を維持、増大させ続けることが出来ればいい存在だからである。ここで人は生き方を選べるのである。事業を大規模に拡大し、自身も富を追及するなら株式会社、大それたことはしなくてもやはり自分で儲けた金を自分の物にしたいのなら有限会社、ただ、自分が何かしら自分の出来る範囲で世の中のためになって生き続けるのならスティクティングというようにである。社会にサービスする存在だけあって、スティクティングを作るには大した手間がかからないようになっている。2万円程度の現金と、登録自治体内での郵便アドレス、そして、銀行口座があれば、あとは行政書士に委託して申請すれば誰でも作れるのだ。私の友人には4つ持っているという人もいたりする。
このスティクティングという企業は、オランダのメディアの中で、大きな役割を果たしている。
オランダでテレビ放送が始まった時より、合法的には15万人以上の放送に対する支持会員を集めたスティクティングに対して放送団体という地位を与え公営放送局の放送時間を割り当てる制度が放送開始の最初から存在し、今に続いていることに始まり、1980年代に入り、同じく地方政府による地域放送の割り当てが始まってから、地方放送局がスティクティングで設立され、地方放送局が持つ放送施設を通じてより幅広いスティクティングに放送時間が割り当てられ、事実上、誰もが自由に番組を放送できるパブリック・アクセスが実現しているのである。
ラジオの世界は更にすさまじく、スティクティングによるラジオ局設立のハードルがテレビ局よりも低いにも関わらず、放送するための送出機材そのもののコストが安いこともあって、無数の未認可のラジオ放送局が存在しているが、表現の自由を優先しているのか、ほとんど取り締まられていない状態にあるのである。この未許可のラジオ局は、アムステルダムでの尖がったカルチャーの象徴の一つとも認識されており、ラジオの送出局を作りたいともし、思い立つことがあっても何人かの友達を介せば作り方を教えてくれる人物に出会うことが出来るだろうという程度のものなのだ。
メッセージを刷れ・電波を流せ
今から20年以上前、十代半ばのとき、第三世界ショップで働いたのが私の活動の最初であった。そこで、文章の書き方、出版物の作り方、マスコミの用い方を経験で会得していった。その経験をもとに、環境や反原発、そして、スクウォティングなど、様々な活動を若い時した素地が生まれたのだよ。活動での必要性に応じて、新聞の刷り方や、ラジオ局の技術的な作り方に送信の仕方、コンピュータ・ネットワークの用い方、いろいろ使い、会得していったよ。スクウォティングした場所はD.I.Y.(自主制作を日曜大工にかけて)メディアのラボだったよね。
この経験を必要な人のために活かさなければならない。で、80年代後半以降、ベルリンに行ったり、東欧に行ったりしたのだよ。
ヘアート・ロヴィンク(メディア・オーガナイザー)
とはいえ、このようなメディア活用のハードルの低さが当たり前のようにオランダに存在しているものではなく、地域コミュニティーでの議論の上に醸成されたものであった。
南北問題、移民、環境問題、原子力、学生および若者の自治、ネオナチと反ネオナチ、ジェンダー、ゲイ&レスビアンの権利など、新しい社会的議論が1960年代以降、西欧、特に比較的オープンな政治体制を施していたオランダで活発なものとなっていた。オランダではこれら社会と直結した問題をパブリックな議論の中で議論を重ね、その趨勢によって、政策に取り入れられてゆく流れがスタイルとして存在していた。空き家占拠の権利、売春の権利、大麻所持が違法ではないことなど、何でも、人間として何かしら利害がからみ、行政がからむ問題はすぐにでも社会問題として議論される風土を持っていた。
しかし、これら新しい問題に対して、問題の当事者が、パブリックに対して問題を表明し、議論を盛り上げ、運動化してゆくメディアがその問題の新規性もしくは既存の社会そのものとはオルタナティブなものを表明している故に極めて限られていた。新聞、テレビ、ラジオ、大規模出版ではない、新しいメディアのチャネルの開発こそが、使命であったのである。
そこで、自作出版であるパンフレットや新聞、その流通経路としての書店の運営、カフェや溜まり場へのスポッティングが行なわれ、ラジオ送信技術の手軽さの認知以降はフリーラジオ局の開局と放送、ビデオ・ドキュンメンタリーの制作と、自分たちが使えるメディアの開発とその効果的活用が恒常的に行なわれ、これら新しい問題に関する運動の従事者間で情報交換やリソースやノウハウのシェアリングが行なわれ、中にはメディア制作・運用のスペシャリストとして、ヘアート・ロヴィングのような人物が輩出されるようにもなった。
このメディア表現を巡る新しい状況は、メディア表現を領域とする表現者たちにも様々な影響を及ぼし、表現のモチーフとして用いられる一方、表現者そのもののこれらの運動におけるメディア表現の現場にて活動することや、その新しい問題に対する議論の担い手によるメディアそのものでの発表活動を行なう状態になっていった。
1980年代に生まれた地方放送局はまさに、電波メディアの市民の自由な使いこなし(パブリック・アクセス)の要請を実現する非営利サービスとして生まれたものである。このパブリック・アクセスのテレビは、新しい問題に対する議論の担い手やメディア表現者のテレビを通じた表現意欲を高め、積極的に参加する場として機能して行った。とはいえ、これらテレビおよびビデオ映像の制作には、高価な機材や設備、特別な技術が他のメディアに比べて必要であったが、その部分をビデオアートの紹介と支援のための非営利機関・モンテビデオが補完し、機材の貸し出しや、スタジオの提供、技術および表現手法習得のセミナーや、上映会の実施による情報交換などの支援を行なうというように、ビデオや映像表現で先駆的役割を果たしてきたアートセンターやスティクティングが支援するというという仕組みが自然とオランダでは生まれていったのであった。
社会問題に関する議論や解決のための手段として、メディア表現の重要性が、問題解決への従事者や、行政、地域住民、そしてメディア表現者たちによって認知される過程の中で芳醇に育まれたものなのである。
ハックしない?
そして、コンピュータ・ネットワークという新しい可能性を持ったメディアの登場によって、ハッカーというアクターが参加、新しいパブリック・アクセスの事態へと変遷させて行くことになった。
パーソナル・コンピュータの登場と、コンピュータ・ネットワーキングの拡がりは、インターネットとして西欧まで本格的に接続されるにつれて、全く新しいパブリックメディアの可能性を提示した。それまで、国際電話を用いて大規模コンピュータにアクセスするような、コンピュータ活用そのものが主たる目的であったハッカーの取り組みが、インターネットによって、世界規模で接続されたコンピュータ間のネットワークを用いて、相互にかつフリーにコミュニケーションする運動に傾くようになったのである。
これまで、独占的な通信事業者によって極めて高い通信コストや使用制限を受けてきた通信と異なり、任意の計算機間のネットワークであるインターネットは、通信事業者や国家による制限から開放され、利用者の通信コストも安価であり、コンピュータの処理能力を用いることで視聴覚情報の相互伝送すら可能とする柔軟性を持った、魅力的なメディアであった。しかし、唯一の問題点は、未だごく一部の集団の内部でしかこのネットワークが接続されておらず、アクセスできるのはその集団との関係を持つものか、まさにハッキングするしかなかったのだ。
“Get wired”「ネットワークをつなげ」。ハッカーたちやその集団の内部にあって、インターネットの持つ、今までのメディアには存在しない柔軟性や拡張性を認知した人々が、世界各地でインターネットの一般的なメディア化に1990年代初めから動き出していた。
その頃、アムステルダムでは、後のオランダ最大のインターネット・プロバイダであるXS4ALL創始者たちにつながる、ハッカーグループが、ハッキングを情報通信やコンピュータをユーザーの手に帰すパブリックな行為とするため「ハックティック」という雑誌の発行(1989年創刊)やクラブでのミーティングを中心に動き始め、コンピュータによる情報通信メディアの可能性がパブリックなメディアの可能性を変えるものとして、パブリック・アクセスの担い手たちが関心を持ち始めた時期と重なっていた。そして、ハッカーたちとパブリック・アクセスの担い手たちのインターネットに対する、誰もが直接表現を発信し、欲する限り誰もにリーチし、相互にコミュニケーションの取れる、究極のパブリックメディアとしての期待感が一致し、議論を深め合う中で、まずはハッカー自身の手によって、誰もが安く自由にインターネットにアクセスする仕組みとして自身の手によるインターネット・サービス・プロバイダーを1993年、設立したのであった。これこそ、インターネットにおけるパブリック・アクセスの解釈にのっとった、XS4ALLの誕生であった。この商用インターネット草創期にあってはやくも日本円にして2000円を切って使い放題という破格さは「ハッカーがこの国の情報社会を作った」と何かにつけて先進性と寛容性の例としてオランダ政府が誇示するXS4ALLから始まる成功物語を裏付ける姿勢ともいうべきものであろう。
しかし、パブリック・アクセスの担い手たちは、ハックティックのハッカーたちに対して、より一層、社会文化の一機能としてインターネットを用いる手段を提案したのである。これこそが、自由ラジオ、パブリックアクセステレビに次ぐ、新たなパブリック・アクセス手段、デジタル・スタッド(まさしく意味はデジタル都市)の登場であった。このデジタル都市という発想は、誰もが自由にメディアを持ち、表現し、メディアを通じて直接的な社会参加を実現できるようにしようという意図を持つもの。まさに、今までの新しい社会問題の解決に従事し、メディアの新たなる活用法を常に考えてきた人々が、メディアの可能性にみせられ、議論を重ねてきた中での集大成ともいうべき取り組みであったということが言えるだろう。
このデジタル都市において、メディアを用いる人間は1ユーザーとして、無料で地球規模でのコミュニケーションを取れるネットワークへの接続が与えられ、そこで、直接的な連絡を取ることも、情報を収集し議論することも、自身が伝えたいことをパブリックな情報とすることも可能としてしまったのである。
情報伝達力の面でも、情報発信に対する表現の柔軟性や容易さの面からも、そして何よりも放送性を内包したデータ通信という極めて今までの国家や行政、企業による規制や権益の枠組み外にあるという点で、今までのパブリック・アクセスに用いてきたメディアを凌駕するインターネットの登場と、ネットスケープの登場を代表とする表現技術の急激な進歩は、メディア表現者にとっても、社会問題解決の従事者たちにとっても今までに無い刺激を与えることになってしまったのだ。
インターネットをつなぐことによって、新しいパブリックの姿が社会問題解決の従事者たちと芸術・文化表現者との共同作業によって実現するかもしれない。その期待感は、テレビ時代の放送局、国民国家時代の美術館と並び得るかも知れない、ネットワーク時代の発信地といえるメディアセンターを生み出していったのである。
参考WEBサイト
De Waag : http://www.waag.org/
XS4ALL: http://www.xs4all.nl/
Hack Tic: http://www.hacktic.nl/
De Digital Stad: http://www.dds.nl/
Montevideo TBA: http://www.montevideo.nl/