July 25, 2001
吉本興業構造改革の旗手に気合を入れなおしてもらう 竹中功さんインタビュー
- cool states
- 11:28 AM
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アーティスト気分であぐらをかいていてはいけません
きき手 岡田 智博(アートデモ)
結局、メディア文化はどこへ行くのか?
現実社会で毎日、人々の目にさらされているメディアの担い手にとって、新しいメディアによる表現の現場はどのように見えるのだろうか?
長年、上方芸能の担い手として、また、お笑いビジネスの企業として目されてきた吉本興業株式会社。この会社は今、多メディア化するコンテンツから文化まで、幅広い領域で質の高いマネジメントを行える存在として、新たな「のれん」を築きつつあります。まさに次のメディアに向けた構造改革を実現しつつある担い手に、私はそのふたつの疑問をぶつけてみました。「マンスリーよしもと」の編集長として吉本新喜劇の構造改革の中心にいたかと思えば、河内家菊水丸のマネージャーとしてイラクのフセイン大統領に会うなど国際紛争の現場にお笑いを、なんばにはYES-fmを立ち上げ社内と町内に新しいメディア文化の息吹を持ち込み、それだけにとどまらず、映画「ナビィの恋」のプロデュースで沖縄ならではの濃厚な喜怒哀楽まで味あわせてくれるということをも、吉本興業という一つの会社でみせてくれた竹中功さん。全国各地の自治体や企業から「もー、ブロードバンドを何とかしてもらいたい」と常に相談を持ちかけられてしまう多忙な竹中さんに私は怒られてしまうのだろうか?
会社にFAXが無かったので車にはねられたことがありました
岡田
竹中さんが吉本興業のIT化の先達になったのだと認識しているのですが、それにはどのような経緯があったのでしょうか?
竹中
最初、吉本にはFAXすらなかったのです。80年代、「マンスリーよしもと」という雑誌の編集をしていたのですが、原稿をデザイナーとすぐやり取りする際にFAXがあると便利じゃないですか。しかし、最初のうちは会社には要らないと。そこで、近くの電話局に行って送ったりしました。一度、家から送る用事があって、家の近くの電話局にFAXを送りに行ったのですが、単車で行ったその途中にはねられたりして、本当、当時のITは命がけだったのですよ(笑)。だから、最初にFAXが入ったのは、私がいた広報部だったのです。
岡田
では、コンピュータを使い始めたのも仕事で・・・
竹中
コンピュータがあると、仕事の効率があがって便利だから使いこなした。90年代に入って、01ショップというのが近くに出来て、マッキントッシュというのを売り始めたのです。そこで「一体、何に使えるの?」と聞くと、「何に使いたいのか」と逆に店の人間が執拗に聞いてくるのです。それなら、もういいやと出て行ったのですが、「何に使えるのだろうか」という疑問が頭から離れずに、いろいろ調べているうちに、買ってしまったのが最初のパソコンのSE30です。おしゃれでしょう。(笑)これがいろいろと使えたのです。まず、作る企画書の数が増えた、本当、小奇麗なデザインのものがすぐにできるのでどんどん企画が通るようになった。
岡田
本当、竹中さんにとって、そして吉本にとってIT化というものは普通の合理化だったのですね。
竹中
そういうこと。
岡田
竹中さんの中で、それが積極的にメディアとして使ってゆこうという方向に変わったのはいつ頃なのですか?
竹中
阪神大震災(1995年)です。関西に住む私たちがこんなに困っているのに、マスメディアというのは東京中心だから、被災地にとって必要な情報をやってくれないのです。ヘリコプターからの映像で「燃えています」って世界に配信するだけですから。「湯煙みたい」とか例えたりして。同じときに大阪ではバーゲンの話題だったりするわけでしょう。そのとき、同じことが難波や心斎橋で起こってしまったら生きてゆくための情報をどうやって伝え合っていったらいいのか?と考えたのです。それには、停電しても聞くことが出来るラジオしかないと。そこで地元による地元のためのメディアを作ろうと、コミュニティーFM局のYES-fmを始めたのです。
岡田
でも、日常には日常の、地元における喜怒哀楽の話題がある。
竹中
そうなのです。地元にあった情報もあれば、お笑いもあり、ファッションやカルチャーというのもある訳です。その結果として、お笑い以外にも吉本ののれんが広がり始めた。
ちょうど、時期だったのですね。知り合いからインターネット始めてみればと言われて、まだネットスケープの1みたいな段階だったのだけれど、アクセスしてみたのです。そうしたら、深夜でも本屋で本を買っている気分でいろいろな情報やおもしろいものが手に入ることが分かって、個人的にもいろいろ楽しんでいたのです。そうしていたら、メディア王ですかルパート・マードックに(吉本興業の)会長と社長と一緒に会ったり、(ソフトバンク社長の)孫さんから話が来たり、ディレクTVの衛星を作っている工場を見に行ったりして、吉本に対してCS衛星放送のコンテンツとして注目が集まったのです。そこで、YES VISIONSという、とりあえず映像コンテンツで試してみるために、自分と数人の社員しかいない、それで食べていければまずいい会社を作ったのです。
アートだっていっていじられることを逃げていては駄目なのです
竹中
CSというと、多くの人は、漫才や吉本新喜劇とコントでそれぞれ数チャンネル、吉本で持てばいいじゃないかと思うでしょう。そうではなくて、200チャンネル全てに吉本が無いといけないのです。天気予報にも、ショッピングにも、誰か吉本の人間がいるのが正しい。何しろ、吉本は人間が資産ですから。
岡田
お笑いの人だけでなくて、芸術家の明和電機さんやDJのテイ・トウワさんという人も吉本の所属ですよね。
竹中
それが普通なのです。花月には誰が立ってもいい。マジシャンでも、人形劇でも、何でも昔は立っていた。要はお客さんがお金を払って喜ぶものを持っている人なら、吉本はいいのです。アーティストだからって容赦はしません、アートだからお金がかかって客が少なくてもいいという方便はここでは通用しませんから。
いろいろなことが吉本から始まってきたので、のれんが変わってきて、アーティストといっている人も集まるようになって来た。つい最近まで「ひとさらい」とか言われて、こわもてだったのに。やはり、人を相手にする仕事なのでのれんというのが重要ですね。
この前、メディアアートとテクノロジーとビジネスとを融合させるという研究所に呼ばれて行ってきたのですが、これがすごくて・・・
岡田
何年も自動音声認識の研究をしていて、ロボットと漫才をさせるということを考えているところですね。それも、たくさん政府からお金をもらっているのに、既に売っている音声認識技術の方が良かったりしているようなところですか?
竹中
そこそこ。私ももっといい音声認識がもうあるのじゃないのとは言ったのですが。先生たちですから、そういう評価は別にしてお金を使って何とかやり遂げないといけない。そこで、やっているよということを世に知らせるために漫才をさせようというのです。しかし、いかんせん先生なので、人工知能とか組んで漫才させようとするのですよ。でも、それだとうまく行かないのです。机上の空論だから。ようわからんものでも、アートとかテクノロジーとかいうだけで予算が出て、世の中にさらされもせずに、ただ予算を消化させて行くようではいいものはできません。世の中の人たちにいじられてはじめて、価値のある表現に鍛えられるのです。生き残るのにそれが無いようでは使い物になりませんよ。
無いものをつくるのがベンチャーではなくてはみ出たものを大きくするのがベンチャーなのです
竹中
それで、「ロボットで漫才が出来るようになりますから、吉本も買いませんか?」というのです。まさに武士の商法ですよね。とにかく「今、ベンチャーを作らなければ。」「大学やアートから飛び出て、その創造力をベンチャーにして活かせ。」とよく言いますよね。しかし、無から有はほとんど生まれない、ここが日本でベンチャーを考える際にあまりうまく行かない問題です。本来のベンチャーのかたちは、今あるものの中ではみ出たものを大きく育てることではないかと思います。
CSで何をしようかと模索しているうちに、まだ本格参入するには時期尚早と踏んで方向転換をはかりました。この数年間、映画を取り巻く環境が大きく変わってきています。もはや今までの邦画を支えてきた名門であっても、作ることのできる映画の数が限られるようになってきました。一方で、ビデオやミニシアターなど、映画を必要とする新しい環境と作り手たちが生まれてきています。このはみ出た部分に可能性があると感じて、映画のプロデュースを始めたのです。
「ナビィの恋」は、笑いは大阪にあるという気負いを凌駕する、気負わない喜怒哀楽を沖縄に感じ続けていた矢先に、そのものの原作に突然出会ってプロデュースしたのです。それが、同じような沖縄への思いをマイケル・ナイマンが感じていることを知って、そこから音作りが始まりました。ナイマンさんには、コザの古いスタジオで収録するなど、ずいぶん大変な環境で作ってもらいましたが、作品そのものに共感してもらっただけでなく、一緒に映画を作って行こうという気持ちで一緒だったので快諾してもらったのです。その結果、邦画史上最も売れたサントラになったようないいものができたのです。この作り方こそ、アートとしての仕事のかたちだと思うのです。
バブルの絶頂期、河内家菊水丸のマネージャーをしていた時に、「フロムA」のCMでルーカスフィルムの火星人と金星人のCGをバックに「カーキン音頭」を出せたというきっかけを持ちました。このCM、東京圏だけのものだったのです。そのとき「あー東京ローカルというのがあるんだ」って知りました。東京の人には、東京で起こっていることが全国で起こっていることだと思って、その頭でものを作っている人がたくさんいますがそれが違うのです。私みたいに大阪と東京を行き来していたり、地方に住んでいたりする方が全国的な感覚を持っていると思います。東京にいるとか、先生だとか、アーティストとか、何かに固執していると出来ることは小さくなって、実はその小さい世界でしか通用できないものになってしまう。「ナビィの恋」が撮れたのは、そんな感覚を持たずに沖縄のすごさを感じられたからだと思います。
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誰に頼りにされてだれのために表現するかが出来なければ使えない
竹中
例の漫才ロボットなのですが、ちゃんとしたボケと突っ込みのやり取りが無いと漫才にならないということを教えて、研究所にはプログラムを組み直した方がいいと伝えました。で、研究所の方でいろいろしているみたいなのですが、どうも違うようなのです。これはしっかりとした台本を書ける人間に書いてもらわないと駄目なので、最悪、構成作家をつけさせてあげようかなと考えています。
結局、最終的にはどんなコンテンツでも、面白くて、使える本が書ける人間を、どれだけ持っているかに決定されるのです。
岡田
芸人さんだけでなく、笑いや物語や演出を支える作家さんを数多く抱えているから吉本は強いということですか?
竹中
その通り、本があるから舞台の喜劇も出来るし、TVのコントも出来るし、CMまで出来る。今、大阪の吉本本社に戻って、地域振興のために吉本の力を活かしてもらうための仕事を兼ねるようになったのだけど、これも本から組み立てる発想とやりかたがあるからそれぞれの地域に沿ったオリジナリティーのあるものが出来るのです。
物事を進めるためには全て、誰に頼りにされて仕事が発注されて、最終的にだれのためにしているのかをちゃんと把握して、サービスしてあげないと、本当に必要とされて成功する仕事になりませんね。この気持ちが、技術やっている先生さんの多くや、アートやっている連中にはあまり無い。だから、いまさらになって予算を削られたとか、お金が集まらなくてやってられないという風になってしまう。
岡田
どのようにしたらそのような感覚が身につくのですか?
竹中
とにかく、たくさんの人に会って、たくさんの仕事を一緒にすることです。自分の場合も、大体、何かあたらしいことを出来る人で納得できる人は、結局1000人会ってやっと見つかるくらいです。日常的にも、なるべくたくさんの他人に出会うようにしています。
一方で、今の若い人はなるべく、周りの仲間やとりあえず価値観の合う人達だけと付き合って、いろいろ表現しようとしている。結局それが、多くの人々からみたらつまらないものになってしまう。こんな状態では、ちゃんとした仕事にならないですよ。
岡田
ブロードバンド化などデジタルメディアがやっといじりやすくなってきたように思いますが、何か展開を考えていますか?
竹中
吉本ののれんのイメージが外の人から見て変わったこともあって、デジタルなら、コンテンツなら何か解決してくれるに違いないと、会社さんだけでなく、日本中の役所からも相談に来ます。「ブロードバンドするので何とかしてください」と。そのときはまず、さっきお話したように、その事業が誰のためのものなのかを考える必要がありますと、相談を持ちかけられた人には考えてもらっています。使ってもらえる、喜ばれるもので無いといけませんから。
吉本は人が資産の会社です。どんなメディアが起こってきても、対応できるタレントと本を作ることが出来ますから、積極的にメディアに手を出すというよりも、一緒に仕事をしていければというスタンスですね。しかし、私自身、これからのメディアに対応できるタレント、お笑いだけでなくて、アーティストや作家さんはいないかなといつも探したり、会って、話をしています。若くていいのがいたら、まず、住家と食べ物とやっていけるだけのお金は出してあげて、才能が伸びるかやらせてみますね。そのやり方は、昔も今も変わりませんよ(笑)。今の20代とかの若手の中にも、今の時代から生まれた凄いのがいるのじゃないかといつも期待して思っていますから。