未来をアイテムにギークが穴を空ける街

1999/03 ベオグラード:セルビア

→デジタルメディアがその街のカルチャーシーンをリードしている場所として、実は最も先鋭的なのが戦時統制下の中にあるユーゴスラビア連邦セルビア共和国の首都であるベオグラードであったりする。
 連邦と名乗りながら、構成国が軒並み分離独立し、もはや残されたもう一つの構成国であるモンテビデオまでが距離を置いているこの世界の中で孤立した国の中で、孤立を埋め、外と一番つながる手段となっているのがデジタルメディア。
 政府や為政者の手によってコントロールされたメディア以外から、外の情報を得たり、逆に発信したり、そのことによってつながる楽しみを味わうことが出来る手段として、インターネットや衛星が使われ、これが、ベオグラードのユースにとって最大の知的欲求を刺激するエンタテインメントとなっている。

この項は、@SHIBUYA PPP 2000年春号に筆者が寄稿した原稿をもとにしております

 

筆者がベオグラードを訪れたのはNATOによる空爆の1週間前になる、1999年の3月であった

ブダペストからベオグラードに向かう国際列車、最終目的地は混迷するコソボのプリスチナ。セルビアの国境を越えたとたん、停まる駅ごとでホームに人々が沸き立ち、セルビアの旗を振り、声を嗄らし、若者たちが客車に吸い込まれて行く。

  この列車はコソボへと向かう召集列車でもあったのだ。

 ラベルのついていない瓶を片手に、何か液体を飲む若者たちは、ただ一人の東洋人である私を見つけ、激しく話し掛ける。「中国人か?日本人か? 空手は出来るか、ブルース・リーだ」、彼らにとって心を保つためには話し続けるしかなかった。

 ベオグラードに到着したとき、彼らの中で一番流暢な英語を話す若者がこう答えた。

「すいません、お騒がせしてしまって。僕たちは、戦地に行きます。だから、こうなることしか出来なのです」

 

到着後、未だ粉雪の舞う外を見、
ホテルで厚着を直してタクシーを呼ぶ


  ドアボーイが聞く「どちらへ?」

 私「シネマレックスへ」

 ドアボーイが微笑む。

 「よろしいところを御存知で、何が今日はあるのですか?」

 私「メガデモ大会」

 ドアボーイ「いいなあ、私もグラフィックス、趣味でしているのですよ」

→シネマレックスは、閑静な住宅街の中の、公民館みたいな石造りの建物であった。
  メディア文化アドミニストレーターのネットワーク間での紹介を通じて、事前に連絡を取っていた人を呼ぶ。
  出てきたのは、まるでロンドンのクラブで出会いそうな、蛍光色の服に身を包んだ、一目で元気さがみなぎっていることが分かるかのような女性。
  シネマレックスという場の、デジタルメディア工房、サイバーレックスをゼネラル・マネージャーとして仕切るカタリナ・ジヴァノヴィック。

  早速、初めて来た私をまずはと案内する。

 入り口の壁面には、世界各地からのコンテストやアートフェスティバル、アーティスト・イン・レジデンスの募集要項が所狭しと貼られ、その前で、カタリナは「外の世界へのチャンスを出来る限り掲示したいのですよ」と微笑みながら語る。

 2階に上る。「ここはB92(デジタルメディアによる遊撃的な活動によって奇跡的に当時、存在していたベオグラード唯一の独立系ラジオ局)のシアター部門として生まれ、それがコンピュータやネットワーク、ビデオアートのセンターにまで拡がったものです」と説明する。
  説明を聞いている間に誘われた小部屋には、デジタルビデオ編集機器がびっしりと収納され、若い映像作家たちが編集に打ち込む。
  「ここはビデオアートのための部屋、B92のドキュメンタリー部門みたいに放送局レベルの機材でないけど、作品をつくるのには不自由のない設備でしょう」と語る。

 1階に戻り、別の部屋を案内される。
  そこには、何十台ものPC端末でそれぞれのプロジェクトを手掛ける、人々の姿が目に入る。
  一つ一つのプロジェクトをカタリナは説明し始める。
  それに応じて、アーティストやクリエーターたちが熱心に英語でプレゼンテーションをする。
  セルビアのビデオアートのネット上でのアーカイブ、セルビアのポピュラーカルチャーを紹介するオンラインマガジン、セルビア人自身による若者のオンラインコミュニティーを作るプロジェクト。
  異なる考え方や支持体制を持った、異なるセルビアの若き表現者たちがさまざまなプロジェクトを1つの部屋の中で展開し、それがサーバーを介して、インターネットに繋がっている。

 「ここがサイバーレックスです」とカタリナは言う。

  続いて、「ここは誰に対してもインターネットのアクセスやそれによる文化的な表現をすることに対して開放しています。CGやWEBづくりが出来ない人であっても、教えあって出来るようにしています」
  「コンピュータや視聴覚機器を用いて表現すること、そして、メディアにアクセスして、情報を得ること、発信することが、セルビアの若者に対しての文化的救い、そして癒しを与えることが出来るのです。世界と僕は繋がっているのだ、孤独ではないのだと思えるということで」と話を続ける。

 その横から、二十歳をこえたばかりかのくりくり頭が印象的な青年とその恋人に声を掛けられる。振り向くと彼らは端末の前で、プレゼンテーションを始めた。「世界に本当のセルビアを知ってもらいたくて、このプロジェクトさっき立ち上げたのさ…」 「そろそろ、始まりの時間ね…」カタリナがホールに促す。

 この日は毎週開かれるメガデモ上映会の月1回の大会の日。プログラム技術のみでCGを描くメガデモ、その技を競って、セルビア中からCG作家が集まる。
  100人を超える若者たちが集まり、次から次へと繰り出される作品に魅入っていた。

「レックスは、外からの刺激が閉ざされたベオグラードでただ一つ、楽しめるところなのさ」

 メガデモ大会を見に来た、若者の一人が、私にささやいた。
 手には、何か液体が入っているラベルのついていない瓶を持ちながら。

 

訪問から一週間後、NATOによるユーゴスラビア空爆が開始、
それと期を同じくして、セルビア政府の手で、 B92は強制的に閉鎖
そして、B92による運営下にあった、シネマレックス/サイバーレックスも閉じることとなった

→しかしすぐさま、B92のスタッフたちはユーゴスラビア国外のサーバーを経由し、インターネットを通じた「放送」と情報提供を開始、同時にサイトデザインもよりスタイリッシュなものに変化を遂げ、「放送」以外のコンテンツの充実もはかられるようになった。
  活動の場を追われたサイバーレックスの面々がこのインターネット上でのB92のプロジェクトに参加したのである。
  この空爆下のベオグラードで密かに世界のカルチャーシーンと結びつく動きは、B92やレックスの存在が保たれたままであることを国外に伝え、ネット接続やスタッフの国外での受け入れの場の提供、イベントの開催、ニュース化する作業など、ヨーロッパを中心に復活の機会を見計らうための支援活動が、デジタルカルチャーの担い手たちの手によって続々と展開されていった。
  そして、空爆終了後、欠けることなく、スタッフが集合、即座にB92-2 という名で復活を遂げ、放送を再開させている。

 B92は、1989年にチトー大統領の誕生日記念イベントととして15日間限定の実験放送許可をもらって以来そのまま放送を続けている独立系ラジオ局。

  本来は、東側の論理に染まった他の放送局では流していないごきげんな音楽や話題を盛り込んだプログラムを流すも、広告もとらないのでお金のことも気にしない、カレッジラジオの延長にある酔狂なステーションだった。
  ごきげんすぎる故に、政府から度重なる圧力を得れば得る程、セルビアの若者たちや国際社会から注目を浴び、支持を集め、どこからか資金も入り始め、機材面でも、従事するスタッフの数も拡大を続けてきた。
  その拡大とともに、ユース・カルチャーの分野での事業を多角的に展開、音楽CDやテープの出版、ロックコンサートなどのイベント事業の実施、そして、シアター機能を持ったセンターであるシネマレックスの運営に乗り出していた。

  1996年末、ミロシェビッチ政権に対する民主化要求運動が盛り上がる局面において、他の政府影響下にある放送局を向こうにまわし、独自の視点による情報を提供、それまで黙認していた無許可放送の咎で政府より放送を強制停止させられた。
  そのとき、では、インターネットで放送をしてしまえと、即座にハッカーたちの手によってインターネット放送局の機能を作り始めた。
  放送用サーバーは、アムステルダムのハッカーたちの手によって作られたオランダ大手のインターネット・プロバイダXS4ALL が提供、国際電話回線経由でアムステルダムのサーバーを経由、インターネットを用いて全世界にラジオ放送配信をしてしまった。
  それどころか、気脈の通じた欧州各地のメディア・アーティストやアクティビストたちの手によって、国境の外からユーゴ国内への再放送を果たしてしまい、放送停止を骨抜きにしたどころか、国際社会で大きく騒ぎたてられ、B92そのものを結果として売り出してしまうことになってしまったのである。
  結局、政府は長期にわたる国営放送局の送信機使用契約という、より有利な条件を提示、なぜかレベルアップして復活という出来事を巻き起こした。この一件を契機に、B92はインターネットによる情報伝達力と表現力を再認識し、インターネットによるニュース配信とストリーミング放送を本格的に開始するようになった。

 B92の名声が世界に拡がるとともに、ユーゴスラビアそのものの情勢がセルビア人勢力によるコソボへの圧力とそれに対する抵抗の激化、そして、ジャーナリストに対する迫害などと様々な領域で悪化し、注目されることによって、B92に対するプロジェクトや支援の申し出が欧米のメディアやNGOから数多寄せられるようになり始めた。
  このことによって、衛星通信設備、古デジタルのスタジオ、常時接続のインターネット専用回線など、インターネットおよびマルチメディア・コンテンツ製作分野での十分な環境をB92手にすることが出来ただけでなく、1997年にユース・カルチャーにおけるマルチメディア面でのパブリック・アクセスの現場を提供することまで実現してしまった。
  これがサイバーレックスである。

 サイバーレックスは、シネマレックス内でのインターネットの使い方およびマルチメディアによる表現方法、そしてデジタルビデオのワークショップより始まった。
  しかし、経済封鎖と統制行政下でのユーゴスラビアで、コンピュータや最新のデジタルメディア機器を自由に用いて表現が出来、また、国外のアーティストとの交流やインターネットによる情報の入手やコミュニケーションを自由に出来る場はここにしか無かった。
  そのため、表現を求める多くの若者がセルビア全土から集まり、作業するようになり、その数が増え続けていった。
  この熱さに対応するため、常設かつ誰でも機器を用いることの出来るメディアラボとしてシネマレックスの建物内にサイバーレックスがオープンした。
  サイバーレックスは、デジタル・コンテンツ製作とインターネットアクセス、デジタルビデオ製作の工房機能だけでなく、シネマレックスのシアター機能を用いた、ソースコードベースによるコンピュータグラフィックスを競い合うメガデモ大会などといったプレゼンテーションや上映会、ワークショップなどのイベントを開催していた。

 

放送局でありながら、広告収入が無く、だからといって、
政府から補助金が出る訳でないB92
メディア・センターとして機材を揃え、かつ、
国外への通信手段を常時提供しているサイバーレックス
なぜ、それが成り立っているのだろうか

 その背景として、ヨーロッパ各地にあるメディア・インスティテューションの存在が大きな鍵を握っている。
  メディア・インスティテューションとは、メディアの発展を当たり前のものとして、その新しいメディアをどう、一人一人が使いこなして行くのかを、アーティストやクリエーター、ハッカーやメディア・アクティビスト、工学技術や社会学、ビジネスなどあらゆる領域の研究者と、コンサルタントたちといったメディア上で活動を日常的に行なっているプレーヤーたちが、ユーザーとなる地域住民や行政、企業、もしくは世界中の人々に対して、メディア・アートの作品やコンテンツ、イベントやセミナーなど、具体的に見えるかたちで提案する、それぞれのインスティテューションが立地する地域に密着しながら、公共サービスとして非営利に展開する、未来カルチャー創造のためのシンクタンクならぬ「ドゥー」タンクである。
  自分の住んでいる街に一つは未来を作ることが出来る場があるとでも想像してもらえればと思う。 なぜかヨーロッパでのみ花開いたメディア・インスティテューションは、それぞれ、密接な連絡と人的交流を行なっており、B92もメディア・インスティテューションの一つとして交流の輪に深く入り込んでいた。
  そして、その中でも、未来というよりも、人々が既存のメディアが自由に使えないという制限の中で、新しい方法でメディアを構築し、機会を提供するB92の動きはこれらインスティテューションの中でもとても活発なものとして常に注目を浴び続けていた。
  その注目に応じて、難局を打開するためのヘルプや、必要なものとしてB92が要請するもの、そして、そのタレントに目をつけてコラボレーションや支援をオファーするものなど、あらゆるリソースが得られるような状態になっていたのである。
  B92のプロダクション機能に目をつけた国外からのドキュメンタリー放送の製作委託、英国BBCによるバルカン半島向けラジオ番組製作の委託とそのための衛星通信設備の提供、そして、アムステルダムのデジタル・メディア・プレーヤーたちからのインターネット放送用のソリューションの提供や、やはりアムステルダムにあるバルカン半島での自由な報道活動を支援するための機関「プレス・ナウ」 によるサポート、そして他の様々な欧米のデジタル・メディア・プレーヤーたちとの恒常的なノウハウの交換とアクセスチャネルの提供の機会が持たれている。
  この様な、デジタルメディアの強みを活かした、開放的なコミュニケーションの展開がヨーロッパ規模で行われていることが、東欧の抑制された街で起こったささやかなメディア・ステーションが大きな力を持つことになった理由なのである。
  そして、つながるということが関係する人にとってとても楽しいこと。

 

閉ざされた国にインターネットをつなげる。その結果、瞬く間に開かれた喜び、つながった喜びをたくさんの人々が目に見えるかたちであらわすのだよ。つながって嬉しい、おもしろいことがたくさんあるって。そんな姿を目の当たりにしたとき、いい仕事したなって嬉しい瞬間だね

ジョナサン・パイザー:開かれた社会財団・最高情報部門責任者

 ジョージ・ソロス。世界の市場を動かす力を持つ、巨大ファンド・マネジメント集団の総帥。

 彼こそが、このセルビアでのメディア・インスティテューションを支える最大の支援者である。
 ハンガリー生まれのユダヤ人であるソロスは、故郷で起きた、ナチスそして後の共産主義による閉ざされた社会による悲劇が再び訪れないために、そして、閉ざされた社会を解放するため「開かれた社会財団」 という個人財団を持ち、年間数百億円もの資金を投じた活動を行っている。
  その中で、デジタルメディアの接続と自由な活用の機会の提供は重点的なプロジェクトの一つとしている。
 ジョナサン・パイザーは、この財団におけるインターネット設計者として、1994年以来、一人で財団が展開している世界20カ国以上の地域にインターネットを敷設した人物、B92やサイバーレックスが用いている常時接続のインターネットも、パイザーが設計したもの。

  現在、全ての東欧、そして、旧ソ連邦構成国に、メディア・インスティテューションが存在するのもソロスによるサポートによるものである。そして、セルビアだけでなく、東欧各地で面白い活動をしているデジタル・クリエーターや、注目されているメディア・アーティストが生まれ、ヨーロッパのカルチャーシーンにとって、目が離せないものになっている。

 バルト3国・ラトビアで、メディア・アート系インターネット・ラジオ局のポータル・エクスチェンジ を展開している ReLab。コンピュータ上に映し出される文字によって描画するアスキーアート、それを3Dアニメーションで展開するため開発中の旧ユーゴ構成国・スロベニア在住のヴック・コジッチなど、デジタルメディアによって初めて自由な表現を手にした人々による、未来ではない、今、必要だから、楽しみたいから、つくる、デジタルカルチャーが東欧にはあるのだ。

 

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取材・編集・デザイン:岡田 智博  info@coolstates.com

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