January 11, 2008
Documenta 12 | ドクメンタ:現代アートが魅せるビジュアルシーンの世界地理学
- cool states
- 09:53 PM
- カテゴリー:B: Cool States Communications |
- カテゴリー:IT時代のアートとデザイン
岡田 智博 coolstates.com
このリポートは DV JAPAN 12月発売号に寄稿したものです
ドイツの中央部、丘に抱かれた牧歌的な街、カッセルで5年に一度、世界の最新アートが集結する100日限りの巨大美術館が出没する。Documenta「ドクメンタ」と名づけられたそのフェスティバルは、小さい街ながらヨーロッパ各国の皇帝を輩出した城下町の各地に点在するミュージアム群と公園の中に設えられた巨大パビリオンを会場に展開、平素は地元の人々でこぢんまりと賑わうファンシーな町並みが世界中からのアートラヴァーで賑わっている。
5年に一度で12回、60回目という記念すべき節目を迎えたドキュメンタ。
その年輪が現すように、第二次世界大戦後のアートの歴史を刻んできたショーケースとしてのフェスティバル。時代の局面にある世界の現実をアート作品の展示に反映させてきていた。戦後、ナチス時代の全体主義からの反省、そして新たなる全体主義である東側の共産主義に対する文化の最前線として、まさに東西の国境に面した場所からの発信として、多様で鮮やかな西側のクリエイティブを見せつけてきた冷戦時代。東西の和解を経て、グローバルな価値観が交錯する今、地球の様々な場所にある多様な価値観から生まれた表現によって織り成す、クリエイティビティの世界曼荼羅がここに現出していた。
現代アートは欧米だけのものではない。自らと異なる生活習慣や価値観と日常的に接する違和感が摩擦を生む「衝突する文明」という危うい状況の中にあって、実は中国にも南米にも、アフリカにも、そして日本にもその根から生えたクリエイティブが存在し、そこに優劣が無いことをひとつひとつの作品が語りかけ、実物を前に主に欧米で生きる人々がたのしく理解し、とらえなおすことができる光景がここにはあった。
世界中の様々な場所で生きる人々のクリエイティビティの目撃者となることが出来るドキュメンタ。今回のテーマは「現代性というものを疑え」「ライフを剥き出しにする」そして「剥き出しの学び」というまさに直球で「今生きている世界を感じよ」と、観るものを挑発しようと頑張るキュレーティングだ。「新しいからすごい」「最先端だからすごい」「理屈で感じろ」という、クリエイティブを前にした自らの騙しの心に訴えかけようというのだ。
その挑発はどのようなパッションを与えてくれるのだろうか?
世界のアートシーンのスタンダードとなる展覧会やフェスティバルを見るとき、参考になるのは展示の手法。作品を引き立てる展示をいかに設えるか。そのスタイルは、実際に日常の仕事に戻って、上映の場所を作ったり、展示したりするときの大きなインスピレーションと世界標準の見せ方のプロトコルを会得するのに便利だ。
クリエイティブツールのデジタル化によって、現代アートのフォームもまた、新しいものへと変わりつつある。写真による表現はデジタルプリントが当たり前のものとなり、ビデオアートもまたデジタルビデオによる映像表現が当たり前のものとなっている。
メディアが変わることでアートの価値が変わることはあってはならないこと。そのため、これら新しいメディアにあったかたちで展示される手法は、新しいメディアによるアートフォームがアート作品として成立するためのプロトコルを示すものとなる。その中でも世界のアートシーンを動かすドキュメンタの展示手法となるとまさに新しいメディアフォームによる作品価値をふさわしいかたちで表した手法となるといっていいだろう。展示の世界標準だ。
写真における紙焼きのプリントにおいてその最適なプリンティングは手作業によるものであり、処理と状態そのものも作品制作に含まれるものとなっている。作家が作品として満足したプリントは限定数量とともに作品の価値を高めてきた。
デジタルフォトはどうだろうか。出力された作品は、写真と同じように額装されているものもあるが、プリントアウトされた紙をそのままピンで止めて展示している作品が数多く見られた。丈夫な紙に出力し、そのことによる作品劣化が少ない手軽さは、フォトアートそのものの展示を自由な展示フォーム、そしてカジュアルなものへと変えつつある。カジュアルな展示による作品は、プリンティングそのものに作品価値が置かれているのではなく、データそのものに価値が置かれている。すなわち、プリントそのものの希少性によって作品価値が存在しているわけではないのだ。
もちろん、データではなく、プリントアウトそのものの数を限り、その希少性で価値を示す作品も今でも存在しているし、フォトアートをマーケットの中に成立させる上で重要な要素となっている。しかし、紙焼きのプリントや版画がそうであるように、映像そのものを作品として固着化させる行為における人為性やその仕上がりのコントロールと較べ、機械とソフトウエアに頼ることとなるデジタルプリンティングにおいてプリントする行為そのものへの価値のスタンダードが見出せずに錯綜している現実がまだそこにはある。
作品そのものの価値を反映させるのは、プリント先の紙の質によるものか、塗料なのか、ハードとソフトウエアによる微妙なコントロールなのか。そのスタンダードの答えはまだ生まれていない。ただ、写真を撮るという行為において、デジタルフォトに取って代わりつつある現実のみが急速に、フォームとしてのフォトアートを変えようとしている混乱の中にあるのだ。
ビデオはどうだろうか。デジタルビデオとDVDの到来は、ビデオアートそのものの可能性を大いに高めている。ビデオアートの作品が流通する際、写真と同じくデータ化された作品の数をエディションとして限定させることで価値が見出されてきた。昔はフィルムであり、最近まではビデオ、そして今はDVDである。コンピュータによる編集とDVDにすることによって特別な設備を頼らずとも、自由なかたちで作家自身が、直接編集作業とパブリッシングの作業を行えるようになった。まるで絵や彫刻を作るように、ビデオ作家が作品づくりに没頭できるようになったのである。展示する側もDVDという扱いやすい上映メディアであることから、積極的に展示することが出来る作品フォームになっている。
今回のドクメンタにおいてビデオアートやアートフィルムは、重要な展示とされ、数多くの作品が様々な会場で展開された。デジタルによる作家にとっての制作効率の高まりは、世界中の芸術家が映像作品に取り組めるステージを与えた。その結果、世界の異なる価値観から生まれる表現やクリエイティビティ、そしてそのことから反映される、様々な社会の実相をまさに「剥き出しで」提示するフォームとして、デジタルビデオによる作品群が世界の諸相を魅せる彩りとなったのである。
ビデオカメラや編集機材がシームレスでHD化する一方で、ドクメンタにおける動画作品のHD化は進んでいなかった。HDで制作されていても、それを上映する高精細なプレーヤーや上映機器の調達がまだ、アートシーンにおいては一般化していないのである。しかしそれも、シームレスに進むプレーヤーや大画面テレビを中心とするHD化のリプレイスメントによってそのまま進行してゆくことになるであろう。
ドクメンタがあらわす5年という周期はまさに、クリエイティブを取り巻くテクノロジーの進化をどのようにアートフォームとしての展示に落とし込めて行けるのかを確認するにふさわしい時間の間隔なのである。
ドキュメンタで展示される世界を取り巻く「剥き出し」の文化の曼荼羅は、同じメディアツールを使っても異なる表現や諸相を様々なルーツから生まれる表現から見出してくれて、はっとする経験を絶え間なく与えてくれる。アートによるめくるめく思考の旅が展開されるのだ。まさにキュレーターからの挑発を受信し続ける経験である。そしてアートであるという特別な行為が、いつもの生活や経験では垣間見ることが出来ない、特別な光景や体験へと誘ってくれるのだ。
市街地を形成する丘の麓に作られた、18世紀の貴族の庭園につくられた巨大なテント。
ドクメンタの会場を形成するこのテントの中には、秋の乾いた空気と澄んだ光が差し込んでいる。「曼荼羅の旅」の始まりは、南アフリカの写真作家、ガイ・ティルムによる作品から始めたい。アフリカ・コンゴの首都、キンシャサ。舗装もまばらな道路の上に聳え立つ、絶大な権力を誇る支配者の顔が印刷されたポスターがまるでドット画のように展開する巨大なビルボード、その隣の写真はまるでカリフォルニアの豪邸のような支配勢力の実力者の家、その中では白人の従者と洋服に着飾った子どもたち。民族紛争を煽りながら、欧米の富裕指向に酔う支配者たちの対比と、その権力の隠然たる恐ろしさが、熱帯の眩しい光と植物などの旺盛な生命力を活写しながら浮かび上がらせる剥き出しの表現力が、ピンで止められていた。
「コンゴ・デモクラティック」 ガイ・ティルム 2006
その裏には、天安門広場を有する北京のメインストリートを端から端まで描いたルウ・ハオによる巨大な絵巻物。篆刻で昔の横丁の名前をスタンプしたところに展開される、オリンピックに向け建ち続ける建築オリンピック状態の最先端の巨大建造物群が洛中図として展開する。
「長安街2006レコーディング」ルウ・ハオ 2006
隣のテントの仕切りでは、大型液晶テレビに中東・トルコのクルド人地域でのイスラム教ではない伝統宗教の儀式の模様が延々と上映される。儀式の目新しさと独自の木造寺院に多くの来場者が釘付けにする、ハルム・アルティンデラ制作のビデオによる物語、最後に寺院が巨大なコンクリートジャングルの屋上に作られた林の中に建つ姿に、イスラムの人の海の中に孤立する異なる伝統を持つ民族の島の存在として驚嘆するのだ。
「Dengbejs」 ハリル・アルティンディール 2007 写真提供=ドクメンタ12
丘を登り、市電に乗る。展覧会の入場券を手にすれば、市電がその日は無料で乗れるという粋なはからい。
廃墟寸前のビルの中にあるライブハウスと練習場の部屋部屋では、ビデオ作品の上映が。
地下の真っ暗な部屋の中では、ポーランドを舞台につくりあげたアルター・スミシャウスキーによる作品。
共産主義とナチスの傷跡が残る、敬虔なるカトリックの国で、異なる5つのグループが、ポーランドに対する理想を絵で描くことから始まる物語。それぞれのグループが他者の描きあげた絵を自由に改変していいというルールから始まった悲惨なドキュメンタリー。サヨク、ユダヤ人、右派青年団、敬虔なカトリック、それぞれのグループが認めることの出来ない図象に手を出してゆくうちに生まれる阿鼻叫喚。笑っているうちに背筋が寒くなる、思想対立のマインドシミュレーションがそこでは記録されていたのだ。
またまた市電に乗り中心部へ。
秋の草花が野原となって広がる広場に面した巨大な宮殿の美術館。
大広間に展開するモニタディスプレイ群。そこにはドイツワールドカップの同じ試合が様々な表現によって展開する。サッカー戦略ゲーム上においてCGで緻密に再現されたマッチの模様。実際のスポーツ専門放送局での試合放送。スポーツ戦略分析ソフトでのリアルタイム陣形図。フーリガンを監視するサッカー場と繁華街の監視カメラの映像。そこでは同じサッカーの試合が、様々なシミュレーションやメディアを通じて表現され、全てがリアルな「データ」を反映しながらも、何が見るものにとってのリアルであるのかを困惑させるハルン・ファロッキーによるインスタレーションだ。
上の階に昇ると一層の人だかりが。吹き抜けに照らし出されたビデオドキュメンタリーには、緊縛プレイの映像が流れる。今はベルリンに住む、日本の女流現代芸術家がたった一度撮影した緊縛写真のルーツを求め、東京を彷徨するヒト・ステイル制作の物語。そこには有名SM雑誌の編集長や伝説の縄師が絡み合い、性風俗という先入観だけではとらえられることの出来ない、東京の自由人たちによるファンタジーが展開されて行く。写真家、縄師、女優、表現を通じた自由への渇望と探求は、日本のポップな美学にさらなる奥行きを見るものに与えるのだ。
今という時代の剥き出しの世界の諸相が展開される一方、私たちのクリエイティビティが新しさばかりを追っているように見える中で、過去の世代からの想像力の蓄積が美を構築していることを感じさせずにはいられない静的にじんわり感じさせる展示が一方で、展開されていた。
中心部を抜け、丘を登ると、ひとつの山全てが美しい庭園となった宮殿が聳えている。温泉が沸き立つその山は、きれいな水をたたえる池と小川に囲まれた別天地。宮殿の中には数多の王や皇帝を輩出してきた貴族の館のミュージアムだけあり、レンブランドなど16・17世紀の珠玉の絵画が普通に並べられている。その中に、ドクメンタの特別な展示が。中世、中東の遊牧民の王を称える挿絵に描かれた細密画。中国明朝の皇帝の精密な所蔵品カタログ。葛飾北斎による書籍のエディトリアルデザイン。グローバル化する現在、異なる時代に同じツールと手法によって剥き出しに迫る表現。一方、同じ時代にあって、異なる文化文明が様々な手法のアプローチで異なる美しさを紡ぎ出してきた時代。その対比と向き合う静かな展示空間であった。
丘を降り、再び現代が支配する展示空間へ。そこにある新しくも見えるクリエイティブが、実は古になされてきたことであったり、つながっていることを感じなおさせてくれる気づきが起こっていた。
新しいものも歴史になる。小部屋に用意された古ぼけた木製のファイルボックス。その中には、冷戦時代のブルガリアの秘密警察が監視していた現代作家の作品のファイルが忍ばれている。抑圧のための証拠が、その時代、生を得ていたクリエイティブのアーカイブとして宝箱になる皮肉さ。別の部屋では、うきうきしながら人々が作品を中心に待っている。田中敦子が色とりどりの蛍光灯で作ったエレクトリックドレス。50年前、東京で起こっていたアートムーヴメント「具体」で生まれたドレスだ。その電気指向は、極東の都市のクリエイティブを世界のアートシーンの最前線に押し上げた記念碑的作品。「ジー」という蛍光灯独自の高周波音とともに立ち上がる電気の衣についうっとり。現代にあるものが古典となり、その作品との邂逅が懐かしさとともに新しさを感じさせる。「現代性」という束縛から外れたときに生まれる自由な意識からの感動が、そのドレスの光の前でうっとりとした数々の顔の中にあるように見て取れた。
Documenta 12 は 2007年の6月16日から9月23日まで開催された
WEBサイト
ドクメンタ12 = http://www.documenta12.de/ (ドイツ語/英語)
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